日時: 2009 年 12月 7日 (月) 18:00 -
場所:

神戸大学自然科学総合研究棟 3号館  609号室,

講演者: 桶田敦
(TBSテレビ報道局ニュースセンター科学・災害報道担当 プロフェッショナル部長)
タイトル: 科学と報道の自分史
−自然科学と社会科学の統一−
abstract: 中学高校時代に私自身の職業観を決定づけたことが2つある.一つは,中学時代の社会の先生が紹介してくださった,元朝日新聞記者本多勝一氏の「中国の旅」である.旧帝国陸軍が行った中国での蛮行をルポしたものだった.この本を読んで以降,中高時代を通じて本多氏の著作を読みふけった. もう一つは高校の地学の授業だった.筆者が育ったところは大阪の豊中市.洪積世の丘陵を神崎川の支流が浸食してできた段丘崖に我が家が有った.あたりはまだ土地開発が始まったばかりで,あちこちに露頭が見受けられた.そんな環境の中で育った筆者は,高校時代に選択した地学の授業で,大阪総群の模式地である島熊山の巡検や化石収集を体験した.当時はまだ,プレートテクトニクス説(当時は大陸移動説と呼んでいた)に対する認識が進んでおらず,高校での授業も造山運動論に基づく日本列島の地質構造発達史であった. さて,高校3年になって,進路選択で理系か文系かを迫られた.級友たちは誰もが,筆者は文系に進んで新聞記者を目指すものだと思い込んでいた.筆者自身もそう思っていた.本田氏やその後に読みふけった数々のルポ(当時はベトナム戦争が終結した直後だった)は,地に這いつくばって取材し,自分が目の当たりにしたことから真実を掴み取る,いわゆるドキュメンタリーや調査報道といった手法のものばかりだった.将来はそんな取材や作品を残したい,という思いが強くなった. だが,この地学でのフィールドワークが何かを考えるきっかけを与えてくれた.対象は違えど,地学(地質)も自然を相手にフィールドからその過去を読み取る作業であり,「それは真理の探究であるからこそ科学的で無くてはならない」場であると感じた.大学で何を学ぶか?この真理の探究こそ学ぶべきものである.「報道」という仕事に就きたいのであれば,まず方法論を身につけようと思った. 結果,選んだのが信州大学地質学教室であった.高校の地学の先生の薦めもあったが,何よりフィールドワークに重きを置いたカリキュラムにあこがれた.大学入学後,教養時代から学部に入り浸り,季節を問わず信州の山々を歩き回った.野尻湖の発掘(後期更新統の人類遺跡とナウマン象で有名)の事務局にも参加した. 大学の仲間はほとんど,地質屋としてコンサルや教職の途についたが筆者は予てからの思いを叶えるべく,報道の道へと進んだ.幸いにして,日本電波ニュース社という,ベトナム報道や第三世界の取材を主に手がける映像通信社に身を置くことができた.その一方で,理系出身ということもあって84年から3年間,TBSのハレー彗星探査計画取材プロジェクトに加わった.その過程で多くの研究者と接する機会ができ,同じ土俵で議論できるような経験を積んだ. ハレープロジェクト後,電波ニュースに戻り,主に旧ソ連・東欧のいわゆる東側の取材に取り組んだ.ちょうどソ連ではゴルバチョフ大統領が誕生し,ペレストロイカの名の下にあらゆる変化が期待できたからである.そんな中,ソ連の宇宙開発の現場を取材できるチャンスが巡ってきた.88年冬,2年越しの交渉の末,バイコヌール基地のテレビ取材を日本のメディアとしては初めて取材できることになった.その取材の過程で,ソ連の宇宙当局が外貨獲得を目的として,民間人を打ち上げる計画を知った.それが,90年にTBSが日本人初の宇宙飛行士秋山豊寛を誕生させるきっかけとなったのである. その後,筆者は92年にTBSに入社し,報道特集などのディレクターを経て現在に至っている.「報道」という社会科学の実践の現場に自然科学の方法論をなんとか持ち込もうと今も苦闘の毎日である.